妻エディット・シーレの紹介


 1893年生まれ。父はオーストリア国有鉄道の官吏,ヨハン・ハルムス(Johann Heinrich Harms)。母は,ヨゼフィーネ。三歳年上のアデーレ (Adele)と共に, 中産階級にふさわしい教養を身につけた女性として大切に育てられた。エディット(Edith)はピアノを弾き,フランス語と英語に堪能であった。
 エゴンと出会った頃,ヒーツィンクにあるエゴンのアトリエの向かいに住んでいた。その頃,父ヨハン・ハルムスは退職していたが,母 ヨゼフィーネの方に財産があったため,恵まれた生活を続けていた。
 1914年の春,エゴンはこの美しい姉妹の存在に気がついた。いろいろと気を惹く行動を取った末,1915年2月,エゴンは知人宛の手紙で結婚の 決意を明らかにしている。エゴンはこの姉妹のどちらでも良かったようであるが,姉のアデーレが身を引いて「私は尼さんなの!」と言ったため, エディットにきめたと言われている。4月,エディットはエゴンへの手紙の中で,愛人であるヴァリーと別れるよう強く要求した。当初, エディットの両親は二人の結婚に反対していた。エゴンの人格,職業,さらに,シーレ家はカソリック,ハルムス家はプロテスタントであるということ, また,戦時下の不安定な時期ということを考えれば当然のことである。しかし,1915年6月17日,二人は簡素な結婚式を挙げた。エゴンが自分の両親の 結婚記念日と同じ日を希望して行われた式であるが,エゴンの母は出席しなかった。
 結婚の4日後,エゴンはオーストリア・ハンガリー二重帝国軍に召集された。エディットはプラハ,ミューリングなどエゴンの赴任先について行き, 軍隊では一兵士にすぎなかったエゴンを支えた。1917年,エゴンはウィーンに配属され,二人の生活環境は好転した。
 エディットは社交的で有能な女性で,エゴン不在の時,画廊,友人,顧客との連絡が途絶えないよう常に気を配っていた。エディットは少々嫉妬深く, エゴンは結婚当初,エディットの裸体しか描かせてもらえなかった。しかし,エディットも裸体のモデルには耐え難くなり,再び職業モデルがやって くることになった。その後,エディットは裸体モデルになることもあったが,顔を別人のものとするよう要求した。このようなことがあっても, エディットはエゴンを深く愛し,献身的に尽くした。1918年3月,ウィーン分離派展の大成功により,エゴンの多くの作品が高値で売れた。国立劇場の 壁画のデザインを依頼され,秘書を雇うほどだった。二人の結婚はとても幸福なものであったに違いない。
 1918年6月,二人はヴァットマン通りの庭に広いアトリアがある大きな二階建ての家に移った。そこは湿気が高く,戦争中のため物資が不足から,暖房も 十分にとれなかった。10月28日,妊娠6ヶ月のエディットは当時世界的に流行していたスペイン風邪に罹り死去した。25才であった。
 エゴン自身もスペイン風邪に罹っており,ハルムス家に引き取られエディットの母により看護を受けていたが,エディットの死去から3日目の10月31日に死去した。
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