恋人ヴァリーの紹介


 ヴァリー・ノイツィルはシーレのエロティシズムを一気に開花させた女性といわれている。1894年,下オーストリア州タッテンドルフの教師の娘として生まれる。クリムトのモデルをしていた17才のとき,クリムトからシーレに「譲り渡された」と言われている。
 1911年4月,シーレとヴァリーは,シーレの母親の生まれ故郷であるボヘミアのクルマウで新生活を始めるが,二人の奔放な生活はすぐに村人達から非難され,転居を余儀なくされた。
 8月にノイレングバッハに移る。翌1912年4月,シーレはいつものように村の子供達を自由にアトリエに入れデッサンをしていた。壁に自作の裸体画を張ったり,エロティックな作品を厳重には保管していなかった。そして,画家としてのシーレに異常な関心を寄せていた13才の少女が嵐の晩にやってきた。シーレとヴァリーは家に帰るよう説得するが,家に帰らなかった。そして,3日目の朝少女の父親がやってきた。そのため,4月13日,「不道徳」と「未成年者誘拐」容疑で捕らえられ,24日間の獄中生活を送ることになる。ノイレングバッハ刑務所に投獄中,初めのうちヴァリーはシーレとの面会が許されていなかったので,刑務所の裏手にあるシーレの独房の小窓から手紙や果物,小物などを投げ込んだ。ヴァリーのこのような励ましは,シーレの辛い獄中生活に希望を与えた。その後,ザンクト・ペルテンの地方裁判所にある拘置所に移され,裁判の結果,「未成年者誘拐」の容疑は晴れたが,「不道徳」の容疑は有罪の判決を受ける。ヴァリーはシーレの友人であるハインリッヒ・ヴェネッシュとともに3日間の禁固刑を終え釈放されたシーレをザンクト・ペルテンの裁判所に迎えに行った。
 同年10月,二人はウィーンのヒーツィンガー通りに住まいを移した。シーレは,死の半年前までここで暮らすことになる。ヴァリーはシーレのモデルをつとめるだけでなく,身の回りの世話をしたり,時にはエロティックな素描を顧客に届けたりもしていた。
 1914年,シーレは向かいに住むハルムス家の姉妹に惹かれ始める。ヴァリーを伴うことで,姉妹を安心させ誘い出そうとする手紙が残っている。1915年2月,シーレはレスラーに手紙を書いている。「結婚するつもりです。・・・・幸いなことにヴァリーではないでしょう。」 同年6月,シーレとエディット・ハルムスの結婚により,4年間の同棲生活が打ち切られる。この結婚が決まる直前,ヴァリーとエディットは話し合う場をもった。聡明なエディットは話を論理的にまくしたて,ヴァリーはそれに対し何も反論することができなかった。次の日,別れがたいシーレはヴァリーと会い,「結婚後も毎年夏二人だけで休暇旅行へ行こう」と大まじめに提案した手紙を渡すが,ヴァリーはきっぱりと断り,2度と会うことはなかった。
 その後,看護婦として赤十字に加わり,結婚はしなかった。1917年12月23日,ダルマチア(現ユーゴスラビア)のスプリット近郊にあった陸軍病院で猩紅熱のため死去した。23才であった。その9ヶ月後,シーレ夫妻も死去する。
 
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