カール・グリュンバルトの紹介


 グリュンバルト(Karl Grünwald, 1887~1964)は第一次世界大戦中,ウィーン六区にあった帝国兵站局に陸軍中尉として勤務していた。 この兵站局は戦闘中の部隊の将校達へ食料やワインを調達するために設立されていた。グリュンバルトは,ウィーンで美術・骨董商を営んでいた。シーレとは一面識もなかったが, 芸術家に大変理解があったため,シーレの望みであったウィーンへの転属に尽力した。シーレは兵站局時代,グリュンバルトに同行し,チロル,南チロルで素描を描いている。 また, グリュンバルトによってシーレの絵が11点売られている。

 <兵士としてのエゴン・シーレ>
 オーストリア・ハンガリー二重帝国では,徴兵制度があった。シーレは虚弱体質のため何度か徴兵を免れたのであるが,戦況が悪化し,1915年5月ついに「合格」, 6月21日祖父の出身地プラハで入隊した。収容所で何千人もの兵士達と過ごした数日間は,シーレにとって辛く耐え難いものであった。
 それから,ボヘミアのノイハウスの練兵所に移され,ウィーン南にあるリージングの捕虜収容所で監視任務についた。シーレは芸術家としてもっと優遇されるよう八方手を尽くした。 希望通りの仕事ではなかったとはいえ前線からは遠く,リージングとウィーン間の往復が仕事であったので自宅で眠ることも可能であった。
 1916年,ミューリングにあったロシア軍の将校捕虜収容所の書記として任じられた。最初,上官達はシーレについて何も知らなかったが, 上官の一人カルル・モーザーはシーレの筆跡が昔ながらの美しい書体であることに目を留め,シーレが有名な芸術家であることを知ると貯蔵室をアトリエとして与えた。 そのことにより,絵の制作も展覧会に出品することも可能となった。
 1917年1月,シーレはウィーンの兵站局に転属され,さらに同年9月,ウィーンの陸軍博物館に配属される。そこではシーレに対する十分な理解があり, 自由時間を多く与えられた。軍務時間以外は平服も許可され,良い環境の中で素描や油彩を描くことができた。
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