ギュータースローの紹介


 パリス・フォン・ギュータースロー。アルベルト・パリス・ギュータースローと書かれている文献もある。本名,アルベルト・コンラート・キートライバー。
 1887年ウィーンに生まれる。オーストリアの地方劇場で役者修業をした後,ベルリンのマックス・ラインホルトのドイツ劇場で舞台に立つが,健康上の理由から画家に転職。
 1909年に「クンストシャウ」(国際美術展)でデビュー。初期作品は,クリムトの影響が見られる。1911年から1913年までパリに滞在,モーリス・ドニの色彩表現,キュビズム的空間構成などに影響を受ける。1914年にはウィーンでの「カール・ライニングハウス・コンクール」に応募し,第2等賞を受賞する。なお,このコンクールで,シーレは第1等賞を受賞するだろうと予想されていたが,未完成のままで出品された油彩画「出合い」は選にもれた。シーレのアカデミーでの同窓生である画家アントン・ファイスタウアー(1887-1930)が,第1等賞を受賞した。
 第一次世界大戦に志願兵として入隊。1918年11月まで軍務に服す。
 文学・演劇にまたがる方面では多彩な才能を発揮し,1911年にはシーレの素描つきエッセー「エゴンシーレ,序文の試み」を出版。1918年,クリムトの死に際して悼辞を捧げた。1919年,オーストリアで最初の表現主義小説に数えられる「踊る馬鹿女」を発表。1919年から1921年までミュンヘンのシャウシュピールハウスの総監督,その後,ウィーンのブルク劇場の舞台美術家を務める。また,25年を費やして完成された長編「太陽と月」は,20世紀ドイツ文学の代表作のひとつである。
 1929年から1938年まで,ウィーン工芸美術学校の教授,1950年から1954年までウィーン分離派会長,1956年から1959年までウィーン美術アカデミーの学長を務める。また,1948年には,ギュータスローを会長に「オーストリア・アートクラブ」が活動を始めた。若いハウスナー,フッター,ブラウワー,フンデルトヴァッサー,フックスなどに慕われていたギュータースローは,いわゆる「ウィーン幻想派」の守護神であった。画廊への紹介や,奨学金のために黙々と推薦状や成績証明書を書いた。「時代の若い証人たちの中で一見のところ親しげに,しかしどことなく秘密めいて,まるでビザンチンからやってきた賓客のように(ウィーン幻想派展の会場の片隅に)座っていた。」(フックス)
 1973年,ウィーン郊外バーデンで没す。

   参考文献 ○エゴンシーレ,スケッチから作品へ(リブロポート1993)
           クリスティアン・M・ネベファイ著,水沢勉訳,アルベルティーナ素描館編集
          ○芸術新潮,特集「百花繚乱のウィーン」,1985年10月号,池内紀解説
          ○レオポルト・コレクション「ウィーン世紀末展」カタログ'(1997.1.18-1.13,            安田火災東郷青児美術館)
 
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