オーゼンの紹介



 
  エルヴィン・オーゼンErwin Osen (1891~1970)

  画家でシーレの友人。1881年生まれという説もある。名前もその時々で変えていて,1910年には,シーレの素描にも書き込まれているように「ミーメ・フォン・オーゼン Mime van Osen 」と名乗っていた。そのほか,「エルヴィン・ドーム・オーゼン Erwin Dom Osen」あるいは,第二次世界大戦後には「ドーム・オー=ゼン」と名乗っていたこともある。

  幼少時代,グスタフ・マーラーが就任していたウィーンの宮廷オペラ劇場のバレエ団に在籍していたという。自分はグスタフ・マーラーに拾われた捨て子で画家として育てられ, クリムトの指導を受けたと吹聴していたらしい。

  1909年
 「新芸術集団」結成時に名を連ねている。

  1910年
 5月シーレとボヘミアのクルマウ(チェスキー・クルムロフ)旅行。この年,オーゼンをモデルに数枚の素描がシーレにより制作されている。

  1911年
 踊り子「モア」をシーレに紹介する。この頃,ウィーンのカバレットにモアと一緒にパントマイマーとして出演している。

  1912年
 6月ノイレングバッハ事件後,ウィーンに戻ってきていたシーレに家賃が格安の自分のアトリエを譲る。ジェーン・カリアーによると「このオーゼンはしまいにシーレの必需品から 作品までを盗んでしまうことになるのだが。」と書いている。事実,1912年7月3日付けのシーレからレスラー宛の手紙で「僕がすべてを委ねた一人の男に対する大きな失望・・・」と 書かれている。このあと,シーレは旅に出て,以後,オーゼンとつきあいはないようだ。
 レスラーの回想録のなかでこの手紙の「男」を引用して 次のように紹介されている。
 痩身のアラビア人のようであり堕天使のような青白く髭のない容貌,優雅な洋服を身にまとい,超絶的なパントマイム表現とそれと同等の言語表現を備え,あたかも世界を放浪する 即興詩人であるような印象をあたえ,モアとともにシーレをすっかり虜にしてしまった。しかし,この男は,いかさま師でシーレの作品を偽造して売り,シーレに大打撃を与えた。
 
 この頃描かれた《座っている半裸の女》などは,シーレ作品とそっくりである。しかも,オーゼンはレスラーが誇張して書いているほどの才能は持ち合わせていなかったようである。 ただし,手紙に書かれた「男」は当時一時的に仲違いしていたA・ペシュカであるという説もある。
 シーレの文学的表現がオーゼンから多大な影響があったとされる説は,疑わしいともいえるが,この時期,ふたりが何らかの影響を与え合ったのは確かである。

  1914年
 プラハでのワーグナーの楽劇『パルシファル』上演に際し,舞台美術を任される。本来,オーゼンは舞台美術家であり,ウィーン宮廷歌劇場の舞台装置の主任であったアントン・ブリオシに 学んでいた。

  1948年
 レスラーの「シーレ回想録」が再版された時(初版は1921年であるがその時は告訴していない),オーゼンが告訴し,レスラーは罰金刑に処せられた。レスラーが回想録のなかで使った 「Neso(ネーゾ)」という名が簡単にOsen(オーゼン)とわかるということであった。

 第2次世界大戦後も作品を制作,発表した。

  1970年
 死去。

  参考文献
エーゴン・シーレ 日記と手紙 大久保寛二 編著 (白水社)
エゴン・シーレ   スケッチから作品へ クリスティアン・M・ネベハイ 著
           水沢勉 訳  (リブロポート)
エゴン・シーレ ドローイング 水彩画作品集 ジェーン・カリアー 著
           和田京子 訳・編(新潮社)

 
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