エゴン・シーレの紹介


1890 0才  6月12日 ウイーン郊外の小さな町トゥルンで,駅長をしていた父アドルフと母マリーの第三子として生まれる。
 素描の非凡な才能は,幼い頃から発揮された。シーレには2人の姉,エルヴィラ(10才で早世)とメラニー,そして4年後に生まれるゲルトルーデが いる。
1904 14才  12月31日,父アドルフ死去(梅毒の進行性麻痺による狂死といわれている。)。叔父のレオポルト・ツィハツェックが 後見人となる。
1906 16才  ウィーン・美術アカデミーに入学。  <注>1907,1908年にアドルフ・ヒットラーがウィーン・美術アカデミーを受験するが不合格となった。
1907 17才  クリムトと知り合う。クリムトの死去まで良い関係が続く。
1909 19才  ウィーン・美術アカデミーを退学。退学した仲間たちと「新芸術家集団」を結成し,ピスコ画廊で展覧会を開く。
1911 21才  ウィーンのミートケ画廊で初の個展を開く。
  ボヘミアのクルマウにアトリエを構え,ヴァリーとの同棲生活を始めるが村人たちから非難され,数ヶ月でウィーンに 戻り,その後ノイレングバッハ に移る。
1912 22才  「不道徳」と「未成年者誘拐」の容疑でノイレングバッハで逮捕され,その後ザングトベルテンで不道徳な絵を広めた として3日間の禁固刑を受け, 24日間の拘留後釈放されウィーンに戻る。
1913 23才  「オーストリア芸術同盟」に参加。多数の絵画展,個展を各地で開く。
1914 24才  シーレのアトリエの向かいに住んでいたハルムス家の姉妹アデーレとエディットを知る。 <注>第一次世界大戦  勃発。
1915 25才  ヴァリーと分かれ,エディットと結婚。数日後,オーストリア軍に召集され兵士としてプラハへ向かい,その後ウィーンに配属される。
1918 28才  2月6日クリムト死去。3月「ウィーン分離派展」に参加し,大成功を収め,画家として地位が確立する。経済状態も劇的に好転したが, 春から大流行 していたスペイン風邪で妊娠6ヶ月の妻エディットが死去。その3日後の10月31日,シーレも同じ病で死去。11月3日にオーバー・ザンクト・ファイト 墓地に埋葬された。
  <注>第一次世界大戦終結。
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