ウィーン旅行の報告

シーレのアトリエと住居(ウィーン編)

 今回のウィーン旅行(02/11/19-26)は,シーレのアトリエ・住居場所の確認とお墓参りが目的でした。
 このコーナーでは,エゴンのアトリエと住居についてお話しします。 「エーゴン・シーレ日記と手紙」(白水社;大久寛二編・訳)に記載された住所を元に主だった所を訪れました。 ただし,シーレが住んでいた頃の状況を留めているとは限りません。
 次回は,お墓について報告します。


○ ウィーン2区ツィルクスガッセ
    (Zirkusgasse)

 エゴンの名付け親であり,父親の死後の後見人であった叔父(父の妹の夫)ツィハチェックの住居があった通りです。 エゴンは,1906年10月,美術アカデミーに入学からしばらく叔父の家に住んでいたのかもしれない。


○ ウィーン2区クルツバウワー通り6
    (Kurzbeuergasse6)
 エゴンは,1907年,ここに初めてアトリエを構えました。 建物の右側が6番地となっています。
 右下の写真がその入り口で,木とカットグラスでできた重厚な扉が印象的でした。
 左下の写真は,すぐ近くのプラター公園の風景です。
 シーレもクリムトも,よく木々を題材に作品を描いています。



○ ウィーン9区アルザーバッハシュトラッセ 39
    (Alserbechstr.39)

 現在,1階はVolksBankという名の銀行になっています。
 1909年初夏,美術アカデミーを退学する前,エゴンはここに移り住みました。この家の中の様子についての記述を見つけたので抜粋します。

 アルザーバッハシュトラーセ39番地にアトリエ兼用のアパートを見つけた。 義務感が非常に強かったので容認できないような生活でも助成はしてやらなければなるまいと思っている叔父の財政的な援助に, 当面は頼ることができた。
 シーレは自分の想像をたえず募らせてゆくので,彼が自分のアトリエの中を整えるためには,時間と想像力と金銭を費やすのが常であった。 このアトリエの様子は,間もなくシーレの友人となり,よき指導者ともなったレスラーによって,次のように鮮明に描写されている。

 見まわすと,周囲は白亜のように白い壁と黒いオブジェ-黒いクッション,黒い漆の箱や黒いガラスの灰皿,黒い背の本,黒い棚の上の黒い花瓶, 黒い額に入った黒い日本製の切り絵-ばかりであった。このさまざまなニュアンスの黒の合唱隊の真中に,若い画家が, 僧服にも似た白い画家用のスモックを着て黒いイーゼルの前に立っていた。イーゼルの上には枠張りした大きなカンヴァスがあり, 彼はそこに,スペクトルのすべての色を用いて,燃え輝く,宝石や花のようにまばゆい絵を描いていた。

  フランク・ウィットフォード著,八重樫春樹訳(講談社)
  「エゴン・シーレ」から


 このアパートから東へ50mほど歩くとドナウ運河に出ます。 河原に降りると,北の方向にフンデルトバッサーがデザインしたごみ焼却場が朝靄の中に突然現れました。
 このアパートから西へ100mほど行くと,超近代的に生まれ変わったフランツ・ヨーゼフ駅があります。


○ ウィーン13区ヒーツィンガ・ハウプトシュトラッセ 101
       (Hietzinger Hauptstr.101)

 1912年から1918年までエゴンはここで暮らしました。
最後まで手放さずにいたアトリエです。
 最上階がエゴンのアトリエでした。


 


○ ウィーン13区ヒーツィンガ・ハウプトシュトラッセ 114
    (Hietzinger Hauptstr.114)
 101番地のシーレアトリエの真向かいにあるアパートです。
 妻エディットの実家ハルムス家が住んでいました。
 エゴンはエディトの母親に看取られここで亡くなりました。

 下から見上げると,建物の飾りが美しい。
 右はシーレがここで亡くなったことを示すプレートです。


○ ウィーン13区ヴァットマンガッセ6
     (Wattmanng.6)
 1918年7月5日こちらに移り住みました。
 エゴンにとって最後となったアトリエ付き一戸建て住宅でしたが,予想に反して湿気が多く,二人の命を縮めた原因のひとつとも言われています。
 この住居について,シーレの友人(妹ゲルティーの夫でもあるアントン・ペシュカ)への手紙で細かく書かれていますので,下に紹介します。


 ぼくはもうウィーン13区,ヴァットマン通り(アルトヒーッィング)の或る家主と交渉しているんだ, 庭園の中の住居つきの新しいアトリエのことでね,ここにぼくらは5月から移り住むつもりなんだ。
 このアトリエハウスは,ちょっと引っ込んだ場所の一戸建てでアルトヒーッィングの美しいバラ園の中にある, 4m60×5m30の小さなアトリエと,12m幅で10m80の奥行きの大きなアトリエから成り立っている, それにとても天井が高い,まわりの三方には2m20幅の回廊がついている。---ほかにきれいな居間1つと玄関の間(吹き抜け), それから九柱戯場が建て増しされている。 ---いろいろなことはこれから整えて行くことになるよ。---ここでぼくは新しく始めようと思う。

    1917年1月13日,アントン・ペシュカへの手紙からの抜粋
    大久保寛二編・訳「エゴンシーレ日記と手紙」から 


注1)
 この手紙の日付の1917年というのはシーレの書き間違いで,1918年ではないでしょうか。(2003/1/5)

注2)
 1918年7月5日に転居したという手紙が残っているため,単純に1917年1月13日の日付は間違いではないかと思いましたが, 前後をよく調べてみると間違いではないとわかりました。1916年6月21日付けのレスラーへの手紙にも「戦争さえ終われば, この家を手に入れる見込みがある。」という意味の記述があります。何年も前から,ここを理想の住居付きアトリエと思っていて 経済状態の好転した1918年に転居したようです。(2003/2/15)



 左は現在の住宅地図です。○印のところが6番地ですが,手紙の内容とはかなり様子が違っています。 しかし,敷地は26m×70mなので, 手紙に書かれているようなアトリエなどがあったのではないかと推測できます。
 美術史家アレッサンドラ・コミーニさんが,1966年,ここに住んでいた所有者のフォルスター(Forster)さんに会って, 1960年に改造が行われていることを確認しています。
 近くには,シェーンブルンの動物園があります。下の写真は,グロリエッタから見たシェーンブルン宮殿です。



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