☆ クルマウ訪問
             チェスキー・クルムロフ


 
 念願だったクルマウ訪問の夢が叶いました。旅慣れているわけでも,語学が堪能なわけでも, お金があるわけでもないので,とりあえずツアーで行くことにしました。
 プラハ・ザルツブルグ・ウィーン6日間('07 9月27日~10月4日)というツアーでしたが, チェスキー・クルムロフに一泊することとウィーンで一日自由行動できるというので決めました。
 なお,「チェスキー・クルムロフ(Český Krumlov (Cesky Krumlov))」はチェコ語表記の地名で, 現在はこのように呼ばれるのが一般的ですが,シーレの時代はドイツ語表記で 「クルマウ(「Krumau」,「Krummau」,「Bohmisch Krumau」)と呼ばれていたようです。


 
○ クルマウ(チェスキー・クルムロフ)
  旧市街地全景
 
 チェスキー・クルムロフ城から撮影

 旅行初日は夜プラハに到着,2日目,プラハ見学,夕刻チェスキークルムロフへ。 現地の女性ガイドによる旧市街の案内がありました。 エゴン・シーレ・アートセンターの前では,シーレの説明があり, 「複製展示中心でなく,いつか,このセンターがシーレの風景画を一枚でも所蔵できたら・・・」と 結構熱く語っていました。 ここでは,シーレを大事にしていると感じました。なお,最近クルマウの風景画が24億円で落札されたとのこと・・・。 なんとかしてあげたいのですが・・・。
 この日は,市庁舎前広場で市が開かれていて,30分くらい自由時間になったので, 私は,すぐにエゴン・シーレ・アートセンターに行って, シーレのコーナーだけ大急ぎで観覧しました。 結局,次の日,自由行動になったので(ラッキー!)もう一度行きましたが・・・かなり大きな建物で, シーレのほか3つの展覧会(キースへリング,アメリカの若手アーティストなど)が開かれていました。

○ エゴンシーレ・アートセンター入口
(Široká No. 70, 71

 シーレコーナーのメインルーム奥にある小さい部屋は,クルマウの風景画(すべて複製のようです。)が周りに展示してありました。 中央の床にチェスキー・クルムロフ(クルマウ)の大きな地図があり,どこの位置から描かれてたかが示してありました。 ここまできて,本当に良かったと思いました。ここのショップで買った「Egon Schiele und Krumau」には,この地図はもちろんのこと, 修復前の街の写真もふんだんに載っていて,ほんとうにうれしく思います。隣の廊下の突き当たりには,投獄されていた時, 描かれた独房の扉がはめ込まれていました。たぶん本物!ちょっとジーンときました。

<後記>
 この建物は,第二次世界大戦まで醸造所として使われていました。
 このルネサンス建築は,1606年から1608年にかけて建てられ,1870年代の改築・増築を経て現在の形となったようです。
 現在,表題のとおり公益組織のエゴンシーレ・アートセンターがカフェとショップとともにセンターを運営しています。

  ○ シーレが描いている市庁舎
 市庁舎向かいと横の面白い形(左端)の建物をシーレが描いています。
Náměstí Svornosti No. 1

 さて,そのシーレのコーナーですが,素描なども多くが複製のような気がしました。 真ん中にあの「ノイレングバッハの部屋」に描かれている黒い家具(たぶんウィーン工房製?)と-, あのいつも滞在先に持ち歩いていたという大きな鏡(思っていたより大きく立派でした), イーゼルなどが展示されていました。たぶん本物だと思います。 この一番大きい部屋には,シーレのかなり詳しい家系図も展示されていたり,スケッチブック,シーレのデスマスク, アントン・ペシュカ(シーレの友人で義弟になった。)が描いたクルマウの風景画も展示してありました。 そうそう,シーレの名刺もありましたよ。 クリムトを真似たのか,シンプルに《Egon Schiele》とだけ印刷されていて興味深かく思いました。

○ エゴンシーレアートセンター隣の建物

 アントンペシュカは,このあたりの建物を風景画に描いています。 右奥の高い建物は,チェスキー・クルムロフ城の一部です。

(Široká No. 7273747576, 77

○ シーレの母親 Marie Soukupova の家
 義弟のアントン・ペシュカと母親は,1911年の夏にこの家に滞在しています。
Parkan No. 111

 ○ シーレが一番たくさん描いている場所
    (1907-1917)
 チェスキークルムロフ城庭園あたりから撮影
Široká No. 82

  <後記>
 シーレは1890年に生まれ,シーレの父が死去した1905年(実際は1904.12.31に没したが,届出を1905としたとのことです。) 以降,音楽の大ファンであった叔父 Leopold Czichaczek が後見人となりました。 叔父家族の洗練された環境はシーレに芸術的な経験を与えましたが,鉄道技師になることを強く進めていた叔父の意見を押し切り, シーレは母の賛成を得て1906年ウィーン・美術アカデミーに入学しました。
 間もなくクリムトと出会い,secessionism 分離派と呼ばれる新しい芸術運動の支持者になりました。 1907年から10年間(?5年間程度かな?),クルムロフの家並を「Dead City 廃墟の町」シリーズに描きました。
 しかし,自由奔放な生活スタイル,モデルを勤めた子供(女性?)たちの訪問,エロチックな作品が田舎町の心境に反感を招き, シーレはここに居を構えようとしましたが,1911年に町から追い出されました。
 なお,アトリエは Pleivec no.343 に現存している(?)とのことです。

 <後記 その2>
 アトリエの位置を確認しました。 2013.5.28

○ 元修道院
 (St. Jošt Church)

 今は,レストラン,マリオネットシアター,衣料品店などが入居しています。ここもシーレは何枚も描いています。 この建物の対岸にシーレの母親の家があります。
( Latran No. 6, former St. Jošt Church in Český Krumlov

<後記>
 修道院とばかりはいえないようです。
 この建物は,1334年以前,PeterⅠ. von Rosenberg. により建設され,Rosenberg 病院の一部でした。 1596年,Peter Wok von Rosenberg がEckthumの建築家 Domenico Benedetto Cometta のデザインによりルネサンススタイルのプロテスタント教会として再建しました。 その後,カトリック教会派との軋轢を経て,1773年までイエズス会士が管理,この間の一時期に修道院であったようです。 1787年には教会が廃棄され,1790年に民間へ売却,帽子商,バー,ダンスホール,カジノに使われ, 1900年住居として,1920年から靴商,オートバイ店などを経て現在に至るそうです。
 ただし,ゴシック教会の若干部分が現在も残されているそうです。

○ この特徴的な建物は製粉所(だと思います。)
 シーレが描く風景に結構出てきます。
Horni No. 152

<後記>
 製粉所ではありませんでした。
 ここには17世紀終わりまで6つの建築物があり,その土地をイエズス会士が購入,1652年に現在の建物を完成, その後,全寮制の学校,音楽学校,農学校などに1940年まで使われていたそうです。
 1940年,学校組織は町に建物を売却し,現在は Regional 国立歴史博物館として使われています。

○ チェスキー・クルムロフ城と庭園を結ぶ巨大な橋

 シーレはお城を一枚も描いていませんが,この橋だけは描いています。 シーレが訪れていた頃には,城主はもうおらず,荒れ果てていたと思われます。 塔に登って描いた絵も多数あります。
Cloak Bridge)


 次の日,思い切って,アートセンター受付のお兄さんに当時のシーレのアトリエの場所 (Parkán no. 343再掲)を聞きました。 旅行の前,はっきりとはわかっていませんでした。 他の人も呼び,3人がかりで,地図を出し,親切に教えてくれました。 お礼に,私のシーレ人形写真を10枚くらいあげたら,メチャクチャ喜んでくれました。 シーレのアトリエは近くでしたが,出発時間が迫っていたので,行くのを断念しました。
 なお、チェスキー・クルムロフ城で日本人の親子連れに出会ったので,どうやって来たのか聞いてみたら, プラハからチェスキークルムロフ直行便のバスが一日5,6便出ている(帰りも)とのことでした。ご参考まで。

                      2007.11.18 

 <参考>
 ・チェスキー・クルムロフに関する地図群
 ・チェスキー・クルムロフの地図その1(再掲)
  建物をクリックすると説明が出て来ます。 
 ・チェスキー・クルムロフの地図その2(再掲)
 ・チェスキー・クルムロフのホテル
 ・チェスキー・クルムロフ城の案内(再掲)
 ・住所一覧(再掲)
 所在地をクリックすると説明が出て来ます。
 残念ながら,住所一覧のリストの中にシーレのアトリエはありません。 街の中心から真南へ約500mの川沿いにあるとのことですが,次回の訪問で位置を確定します。

 なお,当ページのリンクはしばしばヒットしません。
夜は電源を切っているのではないかと推測しています。
時間帯を変えてみてください。




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