☆ 活動記録
  Activity record


☆ チェスキー・クルムロフでの滞在制作日記
Stay creation diary at Cesky Krumlov


シーレのアトリエでの記録
Diary at Schiele's Studio


と き:2017年10月31日~12月2日
ところ:ガーデンハウス(エゴン・シーレのアトリエ)
    チェスキークルムロフ チェコ
管理者:エゴン・シーレアートセンター
2018.9.17


 「今後の予定」(2015.8.28)でチェスキー・クルムロフでの滞在制作の予告をしましたが, 無事終えることができました。
 滞在中,フェースブックでは随時様子を公開していました。 それをホームページにもそのまま滞在日記として掲載させて頂きましたのでご覧ください。
 等身大球体関節人形のシーレは,シーレのアトリエで私自身がシーレと共に暮らすという 疑似体験を行うために日本からはるばる持って行きました。(日付は日本時間となっていますので, 現地と日にちが少しずれているところもあります。)
2018.9.17


 ついにエゴン・シーレがクルマウのアトリエに帰ってきました!はからずも今日は命日。 旅の疲れが少し出てるかな? 2017.11.1(※シーレの命日は現地時間で10月31日)

 シーレのアトリエ、二日目。Wi-Fiがない以外はとても居心地が良い! アトリエも広くて明るい。制作三昧の日々になるな!
 今日はお部屋でシーレの靴下を縫った。急きょ私のTシャツの袖で作る。
 というわけで、頻繁には投稿できないかもしれませんが,元気にしております。2017.11.2

 今日はどこにも出掛けず制作三昧と思っていたのに、素晴らしい晴天に誘われてお城まで散歩! お昼のパンも買って帰る。
  昨日は初めてシャワーを使ったら, ぬるいお湯なのに5分で水に変わるのにはビックリ! 「少ないけど一人なら充分」と 言われていたけれど,日本人のようなお湯の使い方はしないのね。そもそも部屋のなかは半袖でもOK。
お風呂もポカポカの床暖房。水でもなんてことない。2017.11.3

 すっかりリラックスしたエゴンさん。お行儀悪いわ。2017.11.7

 そろそろ制作のペースをあげなくては!ちょっと真面目すぎるエゴンさんかな? も少し茶目っ気がほしいな。11/10

 関節部分の微調整 11/12

 パリから映像作家のHannaさんが撮影に来てくださっていた。犬島時間で知り合って以来, とても気になるアーティストだった。
 私のシーレはもちろん,シーレが見たであろう風景の撮影に同行しました。
 知り合うほどに似かよった感性のふたり! きっと良い作品に仕上がるだろう。11/17 (※このとき撮影された動画は瀬戸内市立美術館での個展で公開)

 なんとか小さいエゴンさんが完成!なんとか合格点。11/21

  小さいエゴンさんに服を作ってあげました。
 やはりクルムロフでは裸は寒い。
  シーレがここで制作するとき,着ていた白いスモック。クリムトは青だけど真似していた。
 いい感じ!11/25

 チェスキークルムロフ滞在ももう一日になった。
 ホテルに移動してからも毎日シーレのアトリエに通っている。
 今日は朝から雪が降ったりやんだり,とてもきれいだった。明日はちゃんと掃除して鍵を返そうと思っています。
 ちょっと名残惜しいな12/1

 さようならクルムロフ。
 来年はシーレ没後100年,チェコにとっても オーストリア ハンガリー二重帝国から 独立して100年という大きな節目の年。
 
 来年また来るよ。待っていてね,シーレさん。これからプラハへ向かいます。12/2

 今日夜7時20分岡山空港に無事到着。ながーい帰国がやっと終わった。
 チェコ滞在時にはあれだけ順調に色々と進めて行けたのに, 帰国のフライトは、これでもかというくらい試練が押し寄せてきてた。
 昨日朝5時私はプラハの空港に着いた。 7時頃のフランクフルト行きの飛行機に乗るためだった。
 ところが,私も乗る便に「欠航」の文字が!「えーっ」と思いながら,とりあえずルフトハンザのカウンターへ。 案外簡単に岡山空港までの予約を新しくやりなおしてくれた。でも,プラハ発14時10分。実に9時間近く待たなければならない。
 幸いにもホテルの人が早朝出発する私に大量のランチパックを持たせてくれていた。
 ハムとチーズがたっぷりはさんであるサンドイッチ、みかん,リンゴ,スナック菓子,ミネラルウォター。
 待っている間食べ続け,やっと搭乗時間かなと思った頃, 何か英語で放送している。 どうも出発が14時50分になったらしい。たいした時間ではないが、これではフランクフルトでの乗り換え時間が45分しかない。 何人かの人がすでにカウンターで問い合わせている。とりあえず私も並ぶ。フランクフルトでは出国審査もあるはずだ。 なんと質問すれば良いか,,,「トランジット OK?」と言いながら全部のチケットと予定時間の書いてある紙を見せた。
  「OK ! but hurryup hurryup !」と身ぶりを加えて答えてくれた。 フランクフルト空港は初めてだったのでとても不安だったけれども,間違えることなく一直線に飛行機に乗ることができた。
  この飛行機は羽田行きなので日本人がとても多く,となりのひととも仲良くなり,羽田に着き,ほっとひといき。
 もう大丈夫だろうと思っていたら,受け取ったスーツケースが壊れている。この旅行のために買ったばかりの新品である。 これはやはり文句を言わなくてはと手続きをしてもらったはいいが,大急ぎで第2ターミナルに行くバス停にいった途端に バスが発車してしまった。
 でもすぐバスは来てやれやれと思ったが, ANAのカウンターで荷物のタグが沖縄になっているので第5カウンターに行ってくれといわれて, 結局は岡山行きのタグだったのだけど,そんなことをしているうちにタイムアウトに!
4時過ぎには岡山に着くはずが, また遅れて夜7時20分着となった。長いながーい一日だった。
 実にプラハのホテルを出発してから岡山に着くまで31時間以上かかった。12/6
2018.9.17

   チェスキー・クルムロフでの滞在制作

 昨年(2014),チェコのチェスキー・クルムロフにあるエゴン・シーレセンターが, 改装されたシーレのアトリエ付き住居でアーティストインレジデンスを始めるという情報を教えて頂き, 早速エゴン・シーレセンターにメールを入れたところ,2017年11月の一ヶ月間の滞在制作が許可されました。
 観光客の少ない冬にアーティストが滞在制作, 翌夏にその制作された作品をアトリエ内に展示して住居とともに一般公開するというこのプロジェクトは, 今年(2015)の6月から開始されているようです。今年の2月に現地に行き下調べをしてきた感じでは, まだまだいろいろ様子を見ながら計画は変更されていくのかなと感じました。
 まずは,この滞在制作をなんとか遂行し, 小さくても良いのでこの地での私の「エゴン・シーレ没後100年宮崎郁子展 in Krumau」 (気合いを入れるために2011年にこのプロジェクトを立ち上げました)の 足がかりとしたいものです。
2015.8.28

   シーレのアトリエ

 以前,フェースブックに掲載させて頂いたものですが,チェスキークルムロフのシーレアトリエのことと エゴン・シーレセンター設立の苦労話を館長のHana(Hana Jiamusova)さんが書かれたテキストを シーレセンターで買ってきた本から私が要約したものを以下に再掲します。
 写真は2月に行った調査旅行の時撮影したものです。
 また,この建物に気づいた記事(2013.5.28)を 「旅行記」の「チェスキークルムロフ旅行記」のページに掲載しています。
 2015年2月から3月にかけて下見に行ったチェスキー・クルムロフ(シーレはドイツ語で 「クルマウ」とよんでいた)のエゴン・シーレセンターで買った本を今になってやっと読んでいます。 知らなかったクルマウでのシーレの生活がまるでその場に居合わせていたかのように書いてあります。 その中に2017年に私も滞在制作する予定になっているガーデンハウスのことが書いてあったので, 簡単に覚え書きをしてみます。

 1911年5月,シーレは川沿いの斜面にたてられた庭付きの小さな家に一目惚れ。 理解のある家主から無料で借りることができ,多少の手直しをして生活を始めたが, わずか3ヶ月足らずで町の人たちからボイコットされ,引越しを余儀なくされた。
 1913年この小さな家は,改修工事が行われされ,切り妻屋根は,二重勾配の屋根となり, 屋根裏に倉庫も造られた。入口は2階のテラスから入るように作り直されたが, むき出しの大きな窓はそのままで水も電気も配管もなく,若いカップルのために改修されたが 夏期短期滞在がやっとできる程度のものだった。 1942年には,この家を相続していたエリザベス・スプリンガーがザンクトベルテンから家族とやって来て, 戦争から逃れるため,急斜面にも冬の寒さにも耐えて暮らしましたが,1945年にチェコスロバキアに移り, この家はその後約30年間空き屋のままで荒廃していた。昨年から復元工事が進められ,家屋は完成して, アーティストの短期滞在制作の場所として提供されはじめている。
2015.8.28

  河原から写した全景

屋根裏部
(アトリエ)
 2階入口から入るリビングルーム
(10畳程度の小部屋で一角にシステムキッチンが据えられていて, 小さなトイレとシャワー室が併設されている。なぜか1階に降りる階段がない)


   エゴン・シーレアートセンター

 チェコで買ったシーレの本には,チェスキー・クルムロフのエゴン・シーレアートセンター設立の 苦労話を館長の Hanaさんが書いています。この情熱あふれるテキストを忘れないよう大まかな内容だけ書きます。
「私」とはHanaさんのことです。

 1989年のビロード革命以後,中世のルネッサンス期の面影が残るチェスキー・ クルムロフの町の復元が一気に高まり,その機運の中で, クルムロフがシーレの母親の出身地であると同時にシーレにとっても生涯の霊感源であったということから, 私たちは,クルムロフでエゴンシーレ展の開催を思い立つが,適当な会場はなかった。  ちょうどその頃,私は,Gerwaid Sonnberger(以後GSと書く)さんと Serge Sabarsky(SS)さんとに運命的な出会いをした。 私達は,クルムロフに国際的アートセンターの建設を思い立った。SSさんもGSさんも,また, シーレ自身でさえチェコスロバキアでは,ほとんど知られてなかったというのに, この米国とオーストリアとチェコの三人組(SS,GS,Hana)は,各方面からの協力支援もあり, クルムロフの国際的アートセンタープロジェクトを成功に導いた。
 私達は約40の建物の中から,旧ビール醸造所であったルネッサンス様式の複合施設を選び, 事実上無一文にもかかわらず,数千万(単位不明)のコストがかかるプロジェクトを実行に移した。 SS・GSチームは,建築学上のアイデアはSSが実行に移し,GSも心はひとつであったが, すべてが順調にいったわけではなかった。
 文化財と建築の条例に対する指導命令を たくさん破っただろうと私は回想している。 SSもGSも,このプロジェクトに人生の喜びを感じながらの冒険であり, 愛と喜びを見いだしたために出来たことであろう。私達たちも彼らと共にこの経験を享受できた。
 まだ修復工事は続きながら,1993年11月に3室を使ってオープンにこぎつけた。 私は,相当に疲れ切っていたが,二人と仕事ができるというチャンスとこの複合施設の完成, 始動を見ることがエネルギーの源になっていた。そして今,展示を行いながら,長年にわたり修復工事も続けられている。 チェコ,オーストリアなど国からの支援にも感謝している。オープン以来,世界各国から, 要人が訪れるようになったが,なかでもチェコのハヴェル大統領の訪問は三人にとっても格別の喜びであった。
 SS,GSからもいろんな形での大きな支援が続けられたが, この町からシーレ財団に無償でこの複合施設が手渡された時には,SSはすでに亡くなっていた。
 その5年後,私たちはシーレの数億(単位不明)の価値があるオリジナル作品を盗まれ(今でもこのことは話すのが辛い)。
 その後,病気だったGSが若くして亡くなった。もうこれ以上の不幸は起こらないだろうと思ったが,まだまだ続いた。
 2ヶ月後,1000年に一度と言われる大洪水がチェコを襲ったのだ。
 しかし,奇跡がおこった! 私達は世界中から,モラルと経済支援を受け取ったのだ。 今,ダメージは修復され, 美術館は元通り展示が行われている。
 利益のない文化センターが生き残ることは,いつでも難しい。 しかし,今日,ただ一人生き残ることが一番大事なことではない。 並外れた幸運を手に入れるということが一番大事である-- 私のように,すばらしい友達,同僚・・。 私達は,幸運にも国境が開かれるという経験をした。そして,たくさんの国の多くの人たちと出会い, そして一緒に助けてもらいながら,驚くべき一つのプロジェクトを続けている。
 私達は多くの悲惨の中から学ぶことができて幸運だった。 それが成功へと結びつき 私達の美術館は100万人以上の人々が訪れている。
2015.8.28

エゴン・シーレアートセンター
正面入口




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